私がこの仕事を始めたのは2005年。当時は「メンタルヘルス」そのものへの偏見がまだ強く、メンタルヘルス対策をすることに消極的な企業がとても多かったものです。研修で「ストレス」の話をすると、「メンタルヘルス不調になる人は心が弱い」という持論を述べる方もいました。
時代が進化し、メンタルヘルスへの理解も深まってきました。2015年にストレスチェックが義務化されたことを機に、メンタルヘルス対策を導入する企業も増えてきました。しかし、中小企業においては、予算に限りがあり、メンタルヘルスにまで手が回らないと考えているところも多いようです。
そこで考えていただきたいのが、メンタルヘルス不調がどのくらい企業に損失をもたらすかということです。
例えば、メンタルヘルス不調によって休職者が一人出た場合。
あるWebメディアが、年収500万円の社員が1年間休職した場合の損失額を試算しています(※1)。
これによれば、発症前の人件費、 休職中の休業手当、代替要員の人件費、上司のフォローに要する人件費、既存社員の残業代+代替要員の教育費などを合計すると、なんと1490万円にものぼるというのです。
また、横浜市立大学大学院国際マネジメント研究科・原広司准教授と産業医科大学産業生態科学研究所・永田智久 准教授との共同研究によって、働く人が「気分が沈む」「眠れない」といった心身の不調を抱えながら仕事を続けることで、日本全体では年間およそ7.6兆円の経済的な損失が生じていることが明らかになりました(※2)。
この損失額は日本のGDPの1.1%に相当し、精神疾患の医療費の7倍にも上ります。
本人の回復には数カ月から数年かかることも珍しくありません。その間、周囲のメンバーへ業務が集中し、チームのモチベーションが下がり、場合によってはそこから次の不調者が連鎖して生まれます。
離職も同じです。優秀な人材ほど、追い詰められる前に静かに去っていきます。「もっと早く気づいていれば」と後悔する経営者の声を、私は何度聞いたかわかりません。
休職や離職は「見えるコスト」です。
しかし、もっと怖いのは、見えていないコストのほうです。
「出勤しているのに、働けていない」という損失=「プレゼンティーイズム」という言葉をご存知でしょうか。
これは、出勤はしているけれど、心身の不調によってパフォーマンスが低下している状態のこと。
欠勤していないから問題ない、ではないのです。
本人も「なんとなくやる気が出ない」「ミスが増えた気がする」と感じながら、無理して出続けている。そういった状態の社員は、どの職場にも必ずいます。そして、それが積み重なった損失は、休職・離職によるものをはるかに上回ることが、さまざまな調査で明らかになってきています。
私がカウンセリングの現場で感じるのも、まさにこれです。
多くの人が疲労を抱えながら働いていますが、職場ではまだまだ業務量を減らす工夫が少ないと感じます。また、セルフケアをする余裕がない人、セルフケアの意識が低い人も多いのです。
この状態を放置すればすほど、組織の損失はふくれあがります。
従業員のセルフケア意識を高めると同時に、皆が疲労しない働き方へとシフトしていくことに本気で取り組まなければ、企業の未来はありません。
ですから、メンタルヘルス対策は「コスト」ではなく「投資」なのです。
社員が安心して働ける職場は、生産性が上がります。相談しやすい雰囲気のある組織は、問題を早期に発見できます。心理的に安全なチームは、メンバーが本来の力を発揮しやすくなります。
弊社がご支援してきた企業のなかには、継続的なメンタルヘルス対策に取り組むことで、離職率が大きく改善したり、職場のコミュニケーションが活性化したりと、目に見える変化が生まれたケースが多くあります。
対策にかけたコストが、何倍もの効果として返ってくる。私はそれを、現場で繰り返し実感してきました。
人と組織の未来を守れる経営者こそが、これからの時代、強い組織をつくっていけると信じています。
※1:株式会社Avenir 『産業医クラウド』
「休職者ひとりの損失は年収の3倍!産業医選びの失敗が大損失を招く」
https://www.avenir-executive.co.jp/sangyoui/column-list/column-kyusyokusya/
※2:横浜市立大学「メンタル不調の影響、年間7.6兆円の生産性損失に—GDPの1.1%に相当と試算」
https://www.yokohama-cu.ac.jp/news/2025/20250611hara.html